考えを整理し、情報を共有したい——。と、言ってみたところで、やはり願望に過ぎぬのか。まだ2回目のエントリであるにもかかわらず、早くも挫けそうになっている。謙虚に趣味の感想や身辺雑記を書くくらいがちょうど良いのかもしれない。そこで、最初の数回は堅めに、慣れてきた頃からはもう少し気軽に書いていこうかと思っている。
おそらくだが、本ブログは「考えの流れ」を整理するものになるだろう。それもなんの脈略のない考えを勝手に結びつけていくものになると想像される。実際、なんとなく無関係の考えが結びついた方が効率はさておき、新しい考えやアイディアにつながる気がする。
前回のエントリでも引用した『思考の整理学』(ちくま文庫)で著者の外山滋比古氏は、「垣根を越えて」という章で、専門性に囚われることなく、さまざまな考えを共有し、発展させていく意義を説いている。氏は、専門性が極端に高じた結果、視野狭窄に陥ってしまうことがあると指摘し、アイディアを育み、意見を交換する場を設けることの重要性について書いている。分かりやすい例として大学という組織を取り上げており、以下のようにその短所を記している。
「大学の組織は、同一分野の専門家をまとめて単位とし、それに学生を所属させる、学部、学科からなっている。活溌な知的創造にとってきわめて不便な環境と言わなければならない」
氏は専門性を否定しているのではなく、偏りが招く弊害と意見の交流がされていない勿体なさについて触れている。1986年に発売された本書だが、今も状況が同じように思えてならない。こうしたことは大学に限らず、企業や研究機関などさまざまな組織で起こることだろう。もっと言えば、国や地域に関係なく起こることだ。氏は解決策の一例として以下を挙げている。
「そういう常識に挑戦し、学問に新しい風を入れようというのが、インターディシプリナリー(学際研究)である。中枢部志向の専門家は、どの学問でも周辺領域には近づかない。どの学問でも境界領域はノー・マンズ・ランド(無人地帯、未開発の領域)ときまっている。そこを開発するには、これまでの学問と学問をへだてていた垣根をとりはらわなくてはならない」
大学に関して言えば、増えているとはいえ、新領域や産学連携などでは日本は米国と比較するとまだまだ遅れをとっているように思える。80年代の本であることを念頭に置いても、以下の氏の指摘は今も当たっているのではないだろうか。
「インターディシプリナリーの研究はいまのところかならずしも成功しているとは言えないが、ひとつには、専門的インブリーディング(同系繁殖、近親交配)の思考からなお抜けきれていないためであるかもしれない」
学生や研究者の専門性が高いことは言うまでもなく重要なことだが、その専門性を大きく発展させていく考えやそれを実現する環境がないのは実に勿体ない。狭い世界であっても高い専門性が、世界を大きく変え得る可能性を秘めている場合は尚のことである。かつて、高度な専門性を持ち合わせながら、自由な思考で幅広く活躍する人々がいた。舞台は15世紀のイタリア。「ルネサンス」である。
「再生」を意味するルネサンスは、イタリアを中心にヨーロッパで14世紀中葉から17世紀初頭までの時期に興った精神運動だ。古典の知の再生を志したこの運動は、ダンテやペトラルカ、サンドロ・ボッティチェリ、ミケランジェロ・ブオナロッティ、レオナルド・ダ・ヴィンチを始めとした多くの優れた文化人や「万能人」たちを輩出している。澤井繁男著『イタリア・ルネサンス』(講談社現代新書)では以下のように書かれている。
「百科全書的な知の人間、いわゆる万能人はルネサンス文化を際立たせる人材である。アルベルティ、ダ・ヴィンチ、カルダーノ、G・デッラ・ポルタ、ブルーノ、そしてカンパネッラらは、みな生き方としては汎知主義の立場にあり、知的好奇心に終生あふれていた。彼らには、いまで言う文系・理系などのべつはなく、たとえ思考法や傾向が異なっていても知は一つ、有機的(生命的)なネットワークを形成しているという脱領域的発想が根本にあった」
もちろん、こうした人間は偶然に生まれた訳ではなく、当時の教育とも大いに関係があった。本書の中では、当時の「人道主義的教育」に触れている。すなわち、「いたずらに専門的知識を詰め込むのではなく、人間として持つべき教養や徳性を、古典古代の著作の解読を通して身につけてゆく新たな教育」である。学業のみならず、舞踏や狩猟、水泳などの肉体の錬成も行われたという。そして、このような教育は大学だけでななく、在野のアカデミーや私塾を通じて形成されたのだ。その結果、絵画や医療、建築にも優れたダ・ヴィンチや以下のアルベルティのような万能人が誕生したのである。
「万能人として活躍し、『家族論』や『絵画論』の著者であり、建築家でもあったレオン・バッティスタ・アルベルティ(1404〜72年)などは、ひとりの自立した人間になるための自己形成・自己実現を第一として、人間はあらゆるもの(科学者・芸術家・技術者)になりうる可能性を秘めた世界人としての市民である、と言い切っている」
また話が大きくなってしまった。上述したような偉人は高い専門性を高い次元で昇華させた特別な人々だった訳で、専門性にもレベルがあり、残念ながら筆者にはそうした高次元の専門性の持ち合わせはない。だが些細な知識や情報程度でも、「垣根を越えて」いくことで新しく見えてくるものもあるかもしれない。このブログでは、自分自身の常識と限界に挑戦していきたい。
コメント