なるべく更新頻度を落とすことなく、末永く続けたい本ブログ。だが、早くも雲行きが怪しくなってきた。やはり身辺雑記程度で済ますのが分相応というものなのか——。そう考えていると、神坂次郎著『元禄御畳奉行の日記』(中公新書)を思い出した。
尾張徳川家に250年間秘匿されてきた『鸚鵡籠中記』という日記がある。筆者は元禄時代に生きた御畳奉行朝日文左衛門重章なる武士だ。尾張徳川藩で御畳奉行を務めた彼は、元禄4年から享保2年まで実に26年と8ヶ月もの間、日記を綴り続けたのである。
『鸚鵡籠中記』という日記名の由来については、文左衛門が自身の体験談や伝え聞いた噂話を「そのまま、ありのままに写して"鸚鵡返し"に書き記したという意味なのだろうか」と神坂氏は推測している。この日記が、とにかく面白い。
確かに「当時の世相、物価から天候気象、日蝕、月蝕の観察、城下に起った大小の事件から身辺雑記、演劇批評から博打情報まで、それらを一種独特のリアリズムをもって赤裸々に書きとめている」こともあり、武士の生活や城下町の下世話な出来事から、江戸時代を読み解くことができる。資料性が高いのは言うまでもない。
だがそれ以上に面白いのは、筆者の文左衛門自身がどうしようもないような「ダメ男」という点だ。彼は「酒におぼれ女を愛し博打を好み、芝居と聞いただけで目のいろを変える。そしてその芝居見物に夢中になっていて、あろうことか脇差の刀身をすり盗られ、鞘だけを差したまま帰ってくるという、いささかな頼りなげな侍」なのである。
気が多く、飽きっぽい文左衛門は、武術の稽古を手当たり次第に始めては投げ出していく。槍、弓、据物斬り、柔術……。血に弱く、根気のない彼はすぐに稽古をさぼるような男だが、朝倉忠兵衛の弓術道場にだけは足繁く通ったそうだ。理由は次の通り。
「なんのことはない。文左衛門が夢中になっていたのは、弓よりも、(師の愛娘である)けいの心を射落とすことであった」
あまりにも分かりやすい男だ。当然、「けいを嫁にしたとたん、文左衛門の弓術熱はけろりとさめてしまった。稽古を怠けている娘むこを励ますため、師であり義父である忠兵衛は、さまざまに心をくだいている」という展開へと続くことになる。
絵に描いたような男、文左衛門。では彼が務めた「御畳奉行」なるものは何か? 主たる業務は、「畳の新造、取替、修繕、調査といった御用を管理するだけ」らしく、その内容の乏しさは、「『鸚鵡籠中記』に描かれている御畳奉行としての記述も、きわめて微量である」ことからもよく分かる。著者も彼の見せ場を求めて、まる一日掛けて日記を精査したものの、「結局、その仕事ぶりらしい記述を数カ所見出しただけであった」そうだ。
悲しいかな、現代人は人生の多くを仕事に費している。日記を毎日も書けば、仕事の話はしばしば出てくるものだろう。ところが、時は江戸時代で、書き手は文左衛門。26年以上の日記で仕事に関する記述は、たったの「数カ所」である。さすが、という他に言葉が見つからない。
だから自然、日記の内容は彼の趣味や下世話な噂話が中心となっている。特に芝居と博打、風俗についてはなかなかうるさい男だ。御畳奉行は言ってみれば公務員である。「公務の旅は、すべて辞令がでるし、旅費も概算によって前渡ししてくれる」こともあり、彼は期待に違わず、本領を発揮してくれている。畳表の買付と称して上方へ出張した際は、相撲見物に芝居見物、料亭廻りに遊郭巡りとやりたい放題である。仕事量はともかく、この辺りだけは、今も昔も変わらないようだ。
文左衛門は神坂氏に「芝居観たさ、遊所通いしたさにうずうずして、わざと御用を拵えて出向したとしか思えぬふしがみえる」と邪推されているが、どうも当たっているとしか思えない。実際、「京に着いた文左衛門は、さっそく、心をうわずらせて歌舞伎見物に駆けつけ、三日つづきで同じ芝居を三度みて、夜は夜で畳商人たちの案内で料亭に行ったり、遊郭に登楼したりして人生の快楽を極めつくしている」のであれば、そう取られても仕方あるまい。
ただ、本人も照れや負い目があったのか、『鸚鵡籠中記』ではこうした記述に関しては、"暗号文字"で書いているらしい。もっとも、「ちょっと考えると誰にでもすぐに解読できる」こともあり、しっかり楽しんできたことが分かるとのこと。ある遊郭で添寝してくれた上方妓については、"遊女とよ……きわめて快楽"であったと感激している始末だ。
結局、公用出張中の文左衛門の日記は、「御畳奉行の職務に関する記述が欠片もない。あるのは京、大阪の妓たちとの交歓のほか、すべてが芝居、芝居、芝居と、芝居にかかわる文字でうずめつくされている」のである。神坂氏が述べている通り、まさに「文左衛門の行動は、元禄武士の社用族としての面目躍如たるものがある」と言う他ない。
家庭内で問題を抱えつつも、ひたすら遊び倒した朝日左衛門重章。彼は享保3年(1718年)の秋に44歳で死去するまで、人生を思う存分に楽しんでいった。当時では考えられない幕政批判、藩政批判を日記にしたためていたこともあり、当時としてはただの身辺雑記も、後世のいまとなっては、掛け替えのない貴重な歴史的資料と化している。文左衛門もさぞ驚いていることだろう。
そうなると、まともに書いているつもりのブログより、文左衛門のように肩の力を抜いた日記くらいのほうがちょうど良いのか。文左衛門が現代に生きたら、きっと下らないながらも面白いものを書くブロガーになったに違いない——。ふと、そんなことを考えてしまうのだった。
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